2月17日は、久司道夫先生の奥様、アヴェリーヌ偕子夫人のお誕生日でした。
偕子夫人は、1923年島根県奥出雲地方の横田町(現;奥出雲町)で、
敬虔なクリスチャン夫婦の次女として誕生されました。
横田は、中国山脈の山懐にある小さな町なのですが、
島根で2番目に出来た教会があり、今でいうミッション・スクール
(幼稚園と女学校)もありました。
同志社大学で内村鑑三と友人関係にあった岡崎喜一郎氏が、
横田に理想郷を造ろうと教会、学校、病院を創立し、
先駆的な教育や文化活動を積極的に行いました。
94歳になる私の伯父も幼稚園へ行っていたそうです。
母はその女学校を出ています。
横田というところは、米(朝廷などの荘園、徳川幕府の直轄地であった)、
鉄(日本で唯一、今でもたたら製鉄が行われています)、
算盤(雲州算盤、ある時期は日本の70%のシェアを誇っていました)、
牛馬の飼育(日本でも有数の牛馬の産地でした。仁多牛は今でも有名)
で豊かな経済を基盤に中央の文化を古くから取り入れ、
先取的な人材を育てたところでもあります。
昔から教育熱心な地で、中学(新しくは高校)から広島や島根の進学校に出し、
その後、東京や京都の帝国大学、私立大学、専門学校に多くの子供を
送り出していました。
アヴェリーヌ偕子夫人もまさしくその一人です。
幼い頃は、そうとうのお転婆さんでスポーツもとっても得意だったようです。
横田駅(しめ縄のかかった駅です。今でも当時の様子が残った駅です。)の
前の広場で、当時としてはめずらしい自転車乗りの練習をし、一番早くから
自転車に乗れたそうです
(私の母もお転婆で、一番早く自転車に乗っていたと言っていましたが・・・
きっと、一緒に遊んで乗っていたのでしょう)。
また、走るのがとっても速かったそうです。
学業も優秀で、とりたてて勉強することもなく成績は常にトップだったと
いうことです。
島根の女子師範学校を優秀な成績でご卒業後、地元で教員をされていました。
師範学校時代も皆が試験勉強をしているのに、スケッチブックを持って
お出かけされていたそうです。それでも成績はトップだったそうです。
師範時代のお友達とは、「どんぐりの会」という同窓会を通して、ずっと、
お付き合いがあったそうです。
久司先生もいつも一緒に出席されて、マクロビオティックのお話をされていた
そうです。
久司先生は、歌がお上手で、「浜辺の歌」をよく歌ってくださったそうです。
偕子夫人がお亡くなりになってからもお電話があり、「私一人でも出席しますから、呼んでください」とおっしゃったと聞いています。
きっと、とっても楽しい同窓会だったことでしょうね。
当時を思い出して、皆さんとても懐かしがっていらっしゃいます。
師範時代にスポーツは、テニスをされていました。
横田では、昔からテニスが盛んで今でも「陰陽テニス大会」が
開催されています。他にも「陰陽○○○大会」が開催されています。
(中国地方の山懐にある横田は、広島、岡山、鳥取と県境を接し、山陽側が陽、山陰側が陰としてこのような陰陽という名の大会が多く開催されています)
94歳の伯父もテニスの選手だったと言っています
(実際、強かったようです。偕子夫人の自叙伝に登場する淀野光子さんのテニス相手をしていたそうです。淀野光子さんというのは、伯父より3歳年上で幼い頃から一緒に遊び回っていたそうです。偕子夫人を桜沢先生の元に導いた方です。
相当の女傑で、いつも馬にまたがって町をカッポされていたそうです。
横田には藤ケ瀬という城跡があり、そこが馬場になっていました。
ブラジルに渡られて、ブラジルでお亡くなりになっています。
横田に教会を造られた岡崎氏の姪でもあります。淀野光子さんと桜沢先生との
関係を調べているところなのですが、偕子夫人がロンドンに滞在中に一緒に
ブラジルに行かれています。淀野光子さんも世界平和運動を一緒にされていたのでしょうか? よく、調べてまたの機会に紹介します)。
偕子夫人が地元で教員生活をされていたときに、地元青年団から依頼され
作られた「横田音頭」は、同僚の先生が作詞、作曲
(ブログで紹介しています高橋一郎=たたら製鉄研究の第一人者。90歳ですが、
とってもお元気で今でも研究発表をされています。先日も読売新聞に論文が掲載されてそうです)をされ、偕子夫人が振付けをされた踊りです。
それができたときには、3名の少年合唱団(偕子夫人の弟の横山誠さんもメンバーでした。とてもきれいな歌声だったそうです)にあわせて、踊りは中学生に教えて
踊らせ、オルガンを大八車に乗せて、町のいろいろなところで披露されました。
最後に稲田姫神社で奉納の踊りをしたそうです。
一昨年、その中学生だった方がこの横田音頭を復活させてくださいました。
保存会もできて皆様に披露しています。
私も一応メンバーに入れて頂いていますが、品のあるきれいな振付けです。
頭が良くて、品があって、おちゃめで、思ったことはすぐに真直ぐに進んで
いかれる方だったようです。
母が元気なときに、偕子夫人にお会いできなかったのがとても残念です。
智子夫人は、母が「信ちゃん。信ちゃん」といっていた大親友の一つ違いの妹さんです。
母と信恵さんは一緒にお見合い写真を撮って、ほぼ同時期に満州に渡り
新婚生活をしています。同じぐらいのお子さんがいらっしゃいました。
母は終戦前に、兄を連れて無事帰国できました。
ロシア国境にお住まいだった信恵さんご一家は残念ながら、
帰国できませんでした。
偕子夫人の地元の同窓会(昭和17年4月3日。上から2段目。右から2番目が偕子夫人。21歳)
信恵さんと母(右)
最後の様子を知りたくて、ラジオの尋ね人の番組に応募されたのは偕子夫人
だったそうです。昭和23年に最後の消息を知らせてくれる女性が訪ねて来られたとのことです。
そんな出来事も、偕子夫人を世界平和運動にかりたてたのでしょうか。
「戦争は絶対にしてはいけない」と父もずっと言っていました。
偕子夫人の誕生日に寄せて、マクロビオティックがもっと広まって、真の世界平和がくるように一人一人が心穏やかに、楽しく生活できるようしていきたいものだと
願います。
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