大好きだった・・・叔父が亡くなった

思うこと(店長篇)

お洒落で粋で、多趣味、高尚で素敵な叔父が亡くなった。
私が大好きな叔父だった。
2012年8月31日朝6時8分、救急で運ばれた病院で永久の眠りについた。
前日の夕方、自宅トイレで倒れるまで元気だった。
午前中は大好きな畑にでかけ、いつものように裸足で
畑仕事に精をだしていたという。
日課のようにしていた囲碁には、その日は出かけず、夕食前叔母との
会話の後に入ったトイレで倒れ意識を無くした。
倒れたその時で、呼吸だけ神様は残してくださった。
お蔭で、私は少しの時間だけだったけれど運ばれた病院の救急外来の一室で、やはり松江に住む従兄弟と一緒に叔父の最期まで側にいることができた。
「叔父ちゃん、ありがとう!!」・・・・・心からの感謝の言葉しか浮かばない。
転勤族だった叔父が、都会生活にピリオドを打ち、松江に戻ってきたのと、
私が結婚して松江に居を構えたのが同時期ということで、付かず離れず、ずーっと側で支えてもらった。
お茶は不昧流、お華は池坊、他の趣味はほとんどプロ級の自分流。
陶芸では、松江市長賞を貰った作品もあった。
木彫、七宝焼き、釣り、蕎麦打ち、写真(後から出てきた昔の写真は全部自分で現像までしたものだった)etc・・・・
煙草もお酒も大好きで。
夕方になると、自分で手入れした庭とその借景の茶臼山を眺めながら一杯やっていた。
叔父の家は、叔父の城であり、そして叔母と作った様々な作品の並んだ、小さな美術館だ。
誰にでも親切で、優しい人だった。
二人の娘は遠く、東京近辺にすんでいて、やはり最期を看取ることはできなかった。
娘が遠いこともあって、近くに住む従兄や私にも、死後どうして欲しいかいつも言っていた。
娘の従妹を手伝って、叔父が望んでいたようにしてあげたいと思う。
叔父の死によって、今、また色々考えさせられている。
子供が同居したり、近所に住んでいたりした昔と違う家族形態の多い現代において生じる問題。
それは、私の将来の問題でもある。
世の中がグローバル化、欧米化したことによって、日本の家制度が崩壊し、女性がある面解放されたかも知れない。
それは、とても良い事と思うけれど、女性の強い忍耐によって家庭が丸く治まっていたともいえる。
嫁は女偏に家と書く。
家を守る人間ということとお話くださった方があった。
だから、いつも明るく、家の中心になるようにと・・・・。
死んでからも、私にたくさんの学びをくれる叔父ちゃん。
きっと、叔父がそっくりだったおじいさん、おばあさん、先に逝った伯母や義理の伯父、そして姉である私の母や父に、今頃はあちらの世界で賑やかに
歓迎会をしてもらっていることだろう。
叔父ちゃん、ほんとうにありがとう。
私のこれからの人生、叔父ちゃんのように生きれたら幸せかな・・・・。
少しでも、真似して生きていきます。
叔父の手作りの庭

玄関を入ると、手作りの庭が真正面に見えるようになっています。
叔父の木彫りの一作品
私が日常に使っている叔父の作品の建水、茶杓、茶杓入れ

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